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「他人に迷惑をかけないようにする」という考え方は、自分の首を締めているのかもしれない。

子供への教育をする際に、日本と海外での違いのひとつにこんな例えを聞いたことがあります。

日本では、「他人に迷惑をかけないようにしなさい。」と教えるのに対して、

海外では、「あなたは他人に迷惑をかけて生きているのだから、あなたも周りの迷惑を受け入れて助けてあげなさい。」と言う国もあるとか。

どこの国との比較かは、はっきり覚えていないのですが、なるほどなぁと思った記憶があります。

子供の教育を例にして挙げられていたのですが、これって大人であっても考えさせられる事だと思うんですよね。

特に、最近は考えることが多いので、ちょっと整理してみます。

 
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日本の良さ

僕は1年くらい前までは、ずっと「迷惑をかけない論」を信じて、それを当たり前のように考えてきたように思えます。

他人が困る事をできるだけしない。

例えば、
・ルール、約束、時間は守る。
・共用スペース、共用物は綺麗に使い、使ったら元に戻す。
・行儀の悪い行動をとらない。
・暴力を振るわない。
・乱暴な言葉遣いをしない。

挙げていくとキリがないですが、こういう事が日本人の良さであり、特徴なのかなと思います。

ざっくり言うと、「真面目で誠実」。

いい言葉ですね。

これは今でも大事なことだと思っています。

でも、これをこじらせると、逆にとても窮屈になっていきます。

つまり、上で挙げた内容をきちんとしない人に対して、嫌悪感を持ってしまう。
・時間や約束を守らない。
・公衆トイレは汚す。使ったら使いっぱなし。
・電車等で騒がしい位の音で音楽を聴いている。
・機嫌が悪いと机を蹴ったりする。
・すぐ攻撃的なことを言う。

自分がきちんとすればするほど、それをやってない人に対して「なぜやらないんだ?」と思ってしまいません?

僕は結構思っちゃいます。

これはこれで、マイナス要素だと思うんですよね。

 

許すということ

では、今度は「他人を受け入れる論」を考えます。

冒頭の内容を繰り返すと、「あなたは他人に迷惑をかけて生きているのだから、あなたも周りの迷惑を受け入れて助けてあげなさい。」という考え方。

先程挙げたような事をしても、すべて受け入れられたら、みんな楽しく暮らせるはず。

時間に遅れても、本心から笑って許す。

物が散らかっていても、それを全て受け入れる。

暴力を振るわれて笑顔でいられる人は、そうはいないでしょうが、仏教で悟りを開くとそこまで到達するようですね。

まぁ、それは行き過ぎとしても、全ての人が許しあえば争いも起きないかもしれません。

では、これが本当にいいのか?

時間に遅れる事が当たり前になったとしたら、どうでしょう。

ちょっと極端な例で考えてみます。

例えば、地下鉄が時間どおりにこない。

それも、1分、2分のレベルじゃなくて、30分経ってもこない。

通勤時なら、間違いなく遅刻です。

そして、会社に遅刻しても怒られません。

いいよ、いいよ、と許してくれる。遅刻したぶんの給料は引かれますけどね。

仕事も遅れて、お客さんにも迷惑がかかったとしても、それも許してくれる。

こういう世界、どうでしょう。

楽ですね~。

ストレスとかないかもしれません。

でも、それと引き換えに、「質の高い仕事」はできなくなります。

 

時間や約束を守らないと

例えば、時間に遅れて相手を待たせた場合、そのぶんだけ相手の時間を奪います。

失われた時間でその人は別の何かができたかもしれません。特に、その人が優秀であればあるほど、生み出せるものを大きくなるので、無駄な拘束時間は損害以外の何物でもありません。

次に、約束を守らないとどうでしょう。

期限までに成果物が用意されている前提で、なにかのプロジェクトを進めようとしていた場合、期限どおりできていないと期日に間に合いません。

例えば、10月10日に新型 iPhoneを発売するよ!と言っても、間に合わずに、それが延期されたりします。

楽しみにしていたのに、更に2週間延期される。しかも、2週間後にちゃんと発売される保証もありません。

予定なんて立てられたものではないですね。

 

ちょっと整理

整理①

分かりやすくするために極論で話してしまいましたが、今ままで話を整理してみると、

「迷惑をかけない論」は、みんながやれば快適に暮らせるけど、やらない人が増えれば増えるほどストレスが多くなる。

「他人を受け入れる論」は、みんながやればストレスはなくなるけど、快適で便利な生活とは程遠くなる。

という感じでしょうかね。

 

整理②

別の見方でも整理してみます。

「迷惑をかけない論」は、自分がちゃんとしようとすると同時に、周りに対しても同じような振る舞いを求めてしまうので、周りも同じような考え方で統一していかないと上手く機能しない。

「他人を受け入れる論」は、周りがどんな言動をしようが受け入れて許すので、周りの環境に左右されず、自分だけで収束する。

 

コントロールできるほうへ

どちらもひとつのカタチだとは思うのですが、「迷惑をかけない論」のほうは、自分ではコントロールできないんですよね。周りも含めて、そういう風潮であればいいのですが、最近はそうでもないように思えます。

「迷惑をかけない論」を持っている人の割合が少なくなってきている気がするんです。

つまり、『怒られる事が減って、ちゃんとする人が減り、ちゃんとしている人のストレスが多くなる』という状態になりかかってないかなぁ、と。時代の流れもあるのでしょうが、大人が子供に対して「迷惑をかけない論」の教育ができなくなってしまって、思いが繋がらなくなってるように思えるんです。それが良いか悪いかは、置いておくとして。

教育って、こうするのが正しいんだよ、って教えることです。でも、いつの時代もそうかもしれませんが、何が正しいかというのも変わってきていて、教育で正しさを伝えても、それに納得できなくて、徐々に意識がズレてきているのかなと。その結果として、「迷惑をかけない論」を持っている人が、どんどん生きにくくなっているのかもしれないと思うわけです。

全体が同じような考え方を持っている場合であれば、それほど問題にならないのですが、考え方が違い始めてきた途端、おかしくなる。

だとすれば、「他人を受け入れる論」側へ少しシフトしてもいいのではないでしょうかね。

極論では「ストレスはなくなるけど、快適で便利な生活とは程遠くなる」なんて書きましたけども、あくまで極論であって、日本ではそうはならないと思います。

落とし所としては、「迷惑をかけない論」をもう少しルーズにした「他人を受け入れる論」にシフトするのがいいのではないかと。

時間や約束はきちんと守りつつ、多少の事には目をつぶって受け入れるカタチ。

そんなのがいいんじゃないかと思うわけです。

 

あとがき

  “まよい犬  

自分はこうだから変われない!という人と話をする機会があったので、頭の整理がてら書いてみました。

読み返してみると、なにやらまとまりのない内容ではありますが、まずは投下してみますヽ(´ー`)ノ

でもやっぱり思うのは、歳をとってくればくるほど、考え方を根本的に変えようなんて思わないでしょうが、何か違和感を感じたり、モヤモヤが続いているのであれば、変なこだわりは捨てて、考え方を変えていくべきだと思うのです。

無理だと思ってるからできないだけで、変えようと思いさえすれば、結構変わっていけるものですよ。

というところで、今日はここまで。

 

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