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「幸せになる勇気」を読みました。『教育』についてのアドラー心理学のスタンスが書かれています。

大ベストセラー「嫌われる勇気」の続編である「幸せになる勇気」を読みました。

前作の「嫌われる勇気」は、僕の中でここ数年に読んだ本の中で一番衝撃を受けた本です。

人が幸せになるためにはどうすれば良いか、僕が今までに持っていた常識を覆す内容でした。

その続編。

読まないわけにはいきません。

 
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「褒めても叱ってもいけない」という考え方

前作同様、今回も「青年と哲人」の会話形式で展開されていきます。

今回のメインテーマは「教育」です。

本の冒頭、こんな会話から始まります。
 

青年:特に、そこに掲げられた「ほめてはいけない、叱ってもいけない」という教育方針。断っておきますがね、わたしは律儀に守りましたよ。ほめることもしなかったし、叱ることもしなかった。試験で満点をとってもほめず、きれいに掃除をしてもほめない。宿題を忘れても叱らないし、授業中に騒いでも叱らない。その結果、なにが起こったと思いますか?
哲人:・・・・・・教室が荒れてしまったわけですね?
青年:まさに。まあ、いまになって考えれば当然のことです。安っぽいペテンに引っかかった、わたしが悪かったのです。

 
ここですよね。

アドラー心理学について、まさに一番気になって疑問に思っていたことです。

僕が持っていた感覚は、「良いことをしたら褒める、悪いことをしたら叱る。」です。 特に子供においては、善悪の区別がついておらず、自分で自由に判断をさせてしまっては間違いがおきやすい。 だからこそ、経験ある大人が道を示してあげる。

僕が当たり前のように持っているその常識を、アドラー心理学では否定します。 なぜならば、このようなことが起きるから。

 

彼らは「いいこと」をしているのではありません。ただ「ほめられること」をしているだけなのです。そして、誰からもほめられないのなら、特別視されないのなら、こんな努力に意味はない。そうやって途端に意欲を失います。 彼らは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身につけていくのです

 
これは本当にそのとおりだと思います。 このこと自体がいいか悪いかは別として。

これは学校教育だけではなくて、会社教育でも全く同じことが言えます。 会社の場合は、「褒められること」が「評価されること」に置き換えられますけれども。

つまり、やったことが正当に評価されないと不満を持ってしまう。

よくあります。

というか、会社におけるストレスって、この点がかなり大きなポイントのように思えます。

 

何故、褒めて叱る?

逆に、どうして褒めたり叱ったりするんでしょう。

それは、「考え方を同じにする」ってことだと思います。

人が怒る時って、自分と違うから怒るんですよ。 自分と同じにしようとして怒るんです。

嫌な思いをする時もそうです。 なんでこの人はこんなことをするんだろう、言うんだろうって。 自分では受け入れ難いから嫌な思いをするんです。

逆に、心地よい空間って何?

共感が多い場です。

「うんうん、分かる。一緒、一緒。」

そういう場って凄く居心地がいいし、ずっといたいと感じます。

そこを作るための手段こそ「教育」なのだと思います。

少なくとも、これまでは。

 

教育のやりにくさ

僕が教えられてきた「褒めて叱る」という考え方も、前述した理由から真実だと思います。 ですが、その手法では、今の時代、生きにくくなっているように思えてなりません。

その理由のひとつは、ネットの普及。

昔は「村の中」で生きていて、その村のルールだけが真実でした。 大人からこうだよ、と教えられたら、子供にとってはそれが正しいことです。 少しくらい間違っていても、経験ある大人がそう言えば、それが真実。

でも今は、ネットで調べればいくらでも別の考え方を知ることができます。 仮に、少数派の考え方であったとして、その少数同士、ネットで繋がることができる。 これって大きいですよ。

仲間がいれば、心の拠り所ができますから。 それまでは「周りに合わせたほうがいい」と思っていたことでも、同じ仲間と話すことで「周りに合わせることはない」という方向で考えることができます。 こう思ってるのは自分一人じゃないんだ、他にも仲間がいるんだって思えることは安心しますから。

大人だっていつも正しいことが言えるわけじゃありません。 だからこそ、「村のルール」で縛っても、限界がきてしまったりするわけですね。

いい悪いは別の議論ですが、少なくとも今の時代、「褒めて叱る」ことがやりにくくなってるのだと思います。

 

別のアプローチ

「褒めて叱る教育」って、つまるところ、「自分と同じ考え方に相手を変える」ことだとも言えます。 もしくは、変えないまでも「自分の考えに合わせさせる」ことも含むでしょう。

これって、ある意味、エゴでもあるのですよね。

この手法がやりにくくなっているのだとすれば、別の方法をとるのも手です。

そのひとつがアドラー心理学。

「褒めない、叱らない」の他にも、こういう記述があります。
 

たとえば子どもから「友達のところに遊びに行ってもいい?」と聞かれる。このとき「もちろんいいよ」と許可を与えたり、「宿題をやってからね」と条件をつける親がいます。あるいは、遊びに行くこと自体を禁止する親もいるでしょう。これはいずれも、子どもを「依存」と「無責任」の地位に置く行為です。 そうではなく、「それは自分で決めていいんだよ」と教えること。自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料——たとえば知識や経験——があれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。
(中略)
子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。たとえその決断が失敗に終わったとしても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。
(中略)
教育者は裁判官ではなく、子どもに寄り添うカウンセラーであらねばならない

 
 
考え方を決して押し付けずに、相手が下した判断にどこまでも寄り添うのが、アドラー流。 改めて読むと、凄い考え方ですね。

多様性をすべて受けれいて他者の在り方を認め、その上で自分も振る舞うという。 文章で書くほど簡単なことではありませんが、ひとつの手法ではあると思います。

 

本を読み終えて

この「幸せになる勇気」には、褒めず叱らず教育する考え方が書いてあります。 ただし、あくまで考え方であり、具体的な手法が細かく説明されているわけではありません。

しかも、この本を読んで、その気になって実践しようとしても、現実とのギャップに苦しむ可能性もあります。 なにせ、今までの考え方とは根本が違いますからね。

僕がアドラー心理学は劇薬だと思う所以はここにあります。 今までの考え方に対して一部分だけアドラー心理学を取り入れても、他の論理との整合性がとれずにおかしくなります。

アドラー心理学の実践には、年齢の半分の時間が必要と書かれているくらいですし。

なので、

僕が思う、この本の生かし方は、「考え方の幅を広げること」だと思ってます。 教育とはこうあるべき、という凝り固まった考え方以外に、全く別の視点を持った考え方もあると知ること。

旅行をすれば世界観が変わるのと一緒で、自分が今まで触れたことのない考えに触れることは、より柔軟に考えられるようになる訓練になります。

特に、褒めて叱るのが正しいと思っている人にこそ、一度読んでほしい書籍です。

 
最後に、本の中で僕の印象に残っている箇所をいくつか引用しておきます。
興味が湧いたら、ぜひ手にとって読んでみてください。

  • 尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである。
  • 暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。
  • 「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それがほんとうの個性というものです。
  • 尊敬していない相手のことを「信頼」することはできない。

 

 

あとがき

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「嫌われる勇気」で疑問だったことが、かなり掘り下げて書かれていて、非常に興味深く読むことができました。

オススメです!

というところで、今日はここまで。

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